生物の先生になりたいの!

迷走と突進を繰り返しながら楽しそうに生きる先生を目指す人

死にたい気持ちと生きていく

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こんにちは、かなみです。

今「死にたい」と思う人、「死にたい」と打ち明けられてどのように返答したらいいかわからない人に向けて、両方の立場を経験した今だから言えることをまとめてみました。

当事者の視点で、「死にたい」を深く言語化したうえで、どんな対応をすればいいのか(してほしいのか)、どう対処すればいいのかを解説しています。

 

 

【相談者目線】「死にたい」という言葉の裏側

「死にたい」の解説

「面倒だからいろいろ投げだしてしまいたい」「すべてやめて、逃げ出したい、楽になりたい、遊びたい」という気持ちともまた違う。

 

それは、「なんかの拍子に、もともとはじめから私という存在がなかったことになればいい。」そんな感じのほうが近い。

 

逃げたところで、他にやりたいことがあるわけではないのだ。

 

そんな活力もないほどに文字通り無気力なので、すべてが無くなってしまえばいい、という表現のほうが近い。

 

“自ら死ぬ”という能動的な行動さえ、面倒に感じるのだ。

 

 

ただでさえ自分を無価値に感じるのに、追い打ちをかけるように全世界から無視されて取り残されているような感覚に襲われる。

 

死にたいというよりは、ただ生きる(生命活動を維持する)、息をして食べて排泄をする、それすらもしんどい、やる気が起きない。そんな状態。

 

何となく想像できる人はできるのかな。例えば、インフルエンザにかかったとき、勉強しないといけないけどしんどくてできない、と同じような感じで息をするのが大変といった具合なのだ。

 

気持ち的な問題だろ、と思うかもしれないが、しっかりと身体的にきついのである。でもインフルエンザみたいに「それはしんどいよね」と皆から理解してもらえるとは思えない。だから一人で抱え込んでしまう。それが悪循環を生んでしまうのだろう、と冷静な今はそう思う。

 

 少なくともどんな「死にたい」にも必ず、「私は辛いので、気にかけてください」

 

「こんな私でも受け入れてくれますか?離れていきませんか?」

 

「本当はこんな一面もあることに気が付いてください」

 

そんなメッセージは込められているとおもう。

 

 

なぜ相談できない?

 

これらを伝えられるほど信頼できる人は思い当たらない、いたとしても言語化することが億劫、ましてや十代半ば、言語化できるほどの語彙力も表現力も度胸も持ち合わせてはいない。

 

今でこそ、正体不明のもやもやした気持ちを言語化・表現できるけど、中高生の時の限られた人脈、コミュニティ、ボキャブラリーでは表現の仕方も、相手もわからない。

 

学校と家がすべてのコミュニティの中でそれを打ち明けてしまったら居場所がなくなるんじゃないかと思うと怖いのだろう。

 

 

投げやりな気持ちと拮抗するように、心のどこかにはやはり自分の苦しみに誰か気が付いてほしい、そんな思いがあるから絞りだすようにただ「死にたい」といい、それ以上の言葉は出ないのだろう。

 

「死にたい」と誰かに話すリスク

意を決して誰かに相談した後も危険が伴う。

そんな馬鹿なこと言うな!なんていう無能な人を選んでしまったらトラウマになりそうだが、そうでなくても話したことを後悔させる人間が、私が思いつく限りでも数パターン存在する。

 

①命の大切さを説くパターン (霧あるいは雨は)いつかきっと晴れるよ、パターン

そこまで待てないから今言ってるんだ。耐えても、耐えても、終わりが見えないから相談したんだ。それも聞かずに無責任なこと言うな。そう一蹴したい。

 

見方を変えると、年齢が低いほど時間を長く感じて、大人になるほど時間を短く感じるという話がある。その説では20歳までで体感時間では人生の半分が経過しているそうだ。

 

と考えると大人にとっての数週間はもしかしたら目の前の子供にとっては数か月にも感じているということだ。

 

相手に寄り添って、相手の尺度で考えるのであれば、時間間隔も考えてはどうだろう?

「たったそれだけの期間?時間が解決してくれる」なんて思ったときはこれを考えてほしいと思う。

 

②「そんなときもあるよね」同情パターン。

相手も一生懸命考えて、あなたが大切だからこそ何か言わなくては、とどこかで聞いたことある言葉を絞り出すのだ。

 

でももちろんそんなものは響かない。

 

それどころか、命が大切なこと、生きたくても生きられない人がたくさんいること、頭では十二分に理解している。

 

自分のいらない命とそれを交換できるならしたいって本人が一番思っている。

 

何なら、命を大切にするという ”当然” の事すらもできていない、という自分の現実に余計に落ち込んでしまう。

 

自分はなんてダメなんだ。って。追い打ちをかけるようなことはしないでいただきたい。

 

 

【被相談者目線】今思う「死にたい」への最適解

では何をして欲しいんだろう。それはきっと、ただ聴くことだろう。

 

肯定も否定もしないでただ受け流してほしい

 

そして翌日からは、何も聞かなかったかのように今まで通り接してほしい。定期的に「最近どう?」って聞くので十分だと思う。

 

受け流すというのはきっと難しいことなのだけど、ぜひそうして欲しい。これができる人は本当に一握りなんだと思う。

 

みんな、大事な人ほど必死に引き留めようとしてしまう。悪気はない。そして負の連鎖になる。

 

だから人に話すのって、とてもリスクがある。

いつも楽しいあなただから打ち明けた、それによってこの関係が変わってしまうことは望んでいない

 

私自身はその点恵まれていた。高校生で「死にたい」を言った時、打ち明けたのは、「ただ聴く」ができる人だった。

傾聴にとんでもない時間を割いてくれた。ある日、私がいつも通り死にたいことについて話していた時、その人はいつも通りじっと聴いて、時々質問してくれていた。

そして唐突に「かなみが死んだら、私はすごく悲しい」といって泣いた。

 

その時初めて、自分が死んだら悲しむ人がいるのだと気が付いた。

その言葉は今でもずっと私の中でストッパーになっている。

 

散々聴いてくれた上で言ってくれた言葉だからこそ、その言葉をスッと受け入れることができたんだと思う。それを聞くまで、自分がどうなろうと誰も悲しまないと本気で思っていた。

相談相手の教員にも、「私はたくさんいる生徒の中の一人でしかないから、そんなに感情が湧くはずないだろう」と思っていた。

 

当時を振り返って、自分を大切に出来ない分、他人の事も大切にはできていなかったから、「いなくなったら悲しい」という気持ちがそう簡単に湧くはずがないと勝手に決めつけていたんだろう。

 

でも、紆余曲折を経て、ある程度自分の事も他人の事も大切に思えるようになった今なら、関わった時間とか密度とかさほど関係なく「この人がいなくなったら悲しい」という気持ちが生まれることは納得できるし実感もある。

 

 

 

レベル別、”死にたい”ときの対処法

最後に、視点を変えて、死にたい気持ちを耐え忍ぶための対処法をレベル別に紹介して終わろうと思う。

 

Lv.1なんだか無気力で何もやる気が起きない時

まずは重症化する前の早いうちにお風呂に入ることを試みる。

体を綺麗にすることって、見方を変えると、社会とのつながっているということだと思う。

 

お風呂を上がったら、少しだけ心も軽くなってスーパーくらいなら行ってもいいかという気になる。

午前中は行かれなかった学校だって、午後の授業くらいは顔出せそうな気分にもなるかもしれない。

少しだけ頑張って外に出てみる、行先はどこでもいい

 

Lv.2無気力でお風呂も入れなかった時

三者的な立場に入り込める、ドラマや映画に没頭する

これは、自分が自分だということを忘れることができる。

 

これでひたすら時間が流れるのを待つのだ。ゲームなどもいいかもしれない。

とにかく時間をやり過ごすのだ。

 

眠くなったら儲けもので、すかさず寝る

 

睡眠には本当に強力に活力を復活させてくれる効果がある。

 

起きたらお風呂にはいれるかもしれない。お風呂に入れたら、外出もできるかもしれない。Lv.2は半永久的にここに留まり続けないように、隙を見てLv.1のお風呂に入るフェーズに移行することを少し頑張る必要がある。

 

Lv.3指すら動かすのがしんどい時

下手に動き出したら最期、本当にいなくなりそうなときは呼吸や秒を数える

目先の10秒、5秒でもいい、生き延びる。

これを意識が飛ぶまで繰り返す。

 

私自身これを、最長で3日間やり続けたことがある。

 

あの時はほぼ飲まず食わずで数回トイレに行っただけだった。トイレに行くのもつらくて、目の前に転がっていたペットボトルやビニール袋に用を足してしまおうかと何度も思った。

 

やっとの思いで立ち上がって、トイレにたどり着いたときに「こんな状態でもトイレはするのか」と、なぜか滑稽に思ったのを覚えている。いまだにあれが私にとってどん底だった、という謎の自信がある(笑)

 

確かにオーストラリアでホームレスになりかけてた時ですら、この時よりははるかに辛さは軽かった。

 

 

死にたい気持ちと共に生きる

 

生きづらさと向き合い始めてかれこれ10年が経つ。

得たものは「本当は生きたい」ということに気が付けたこと。

 

時々「死にたい」って思うときもあるけれど、「あ、本当は生きたいんだった」って思いだすことで死にたいは「死にたい」のではなく、「しんどさから解放されたい」だということに置き換えられるようになった。

 

辛いと感じるより前に、このままいくと辛くなるからセーブしよう、今は頑張れる時だから負荷をかけよう。などと、自分の状態に気が付けるようになり、ある程度コントロールできるようになっってきた。

 

関わっていて辛くなってしまう環境には身を置かない取捨選択をする勇気も持てるようになってきた。

 

しんどい時は、「今、私しんどいな~」とある意味傍観者的な立場で自分を俯瞰できるようになった。「とりあえず今は息しているだけで偉い」と自分を甘やかすことができるようになった。

 

これらを得られたことで、安心して挑戦できるようになったことは、この10年間を通して得られたことだと思う。

甘やかして、合理化すると生きづらさが軽減する。

生死について少しストイックになりすぎているんだ。本来、色々なことを人一倍、一生懸命やろうと思っている、それをちょっとやりすぎたんだ。

 

辛くて何もできない時期は、水泳の息継ぎみたいなもんだと思って罪悪感は感じないように心がけている。

息継ぎはしなければ、限られた短時間の間はには速く泳げるけれど、しないわけにはいかない、潜水競技もあるけれど、あれはゆっくりだ。

競泳では息継ぎがいるように、人生は長距離レースみたいなもんで、息継ぎを戦略的にとっていかないといけないんだ。

 

 

息継ぎすることは悪いことではない、戦略だ。

そうやって自分を甘やかしながら、生きていく。

 

それでは!