生物の先生になりたいの!

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学校行事はくだらない?行事を頑張る意味

学校行事、割かし楽しんでやってた系でした、かなみです。

 

学校行事を意味ないと思ってすかしてた奴いたなぁ~とふと脳裏によぎったので、学校行事を頑張る意味について考察してみました。

 

当時は、「こんなことにエネルギー割いていいのかな」と若干悪いことをしている気持ちがありました。

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そんな当時の自分に向けても書いています。

 

 

自分どこに需要があるのかを学んでいく

学校生活のうちの大部分を占める、学習の時間は自分のために頑張ることを前提とした時間です。

 

自分の将来のため、受験のため、好奇心のため、怒られないため…理由は様々ですが、基本的には頑張っても頑張らなくても自分に結果が返ってきます。

 

だからこそ、周囲の大人はその子のためを思って、勉強を頑張るように助言します。

 

 

頑張ったことが、直接的に何らかの形でその子のためになるからです。

 

効率的な学習方法を見つけられるかもしれません。

何か没頭できることが見つかり、研究者の卵になるかもしれません。

より高い学歴を得て、生きやすくなるかもしれません。

我慢強くなるかもしれません。

 

いずれにせよ生きる上で武器になる力が身につくから勉強を頑張らせようとします。

 

 

そしてこの資本主義社会はお金を軸に回っています。

ひとたび社会に出てみると、お金は「誰かの役に立っている」ということを基準に取引されます。

 

お金を稼ぐためには、お金を払ってくれる相手の誰か、がいないと成立しません。

 

 

自分だけが楽しいことをして億万長者になるのはなかなか至難の業でしょう。

 

オタクの頂点のような研究者でも、「好きなことで生きていく」のYouTuberでも、キャバ嬢も、必ず、何か、誰かの役に立ち、そこには彼らを必要としているという需要があります。

 

だから仕事として成立します。

 

 

つまり、自分の楽しみのために何かをするとき、どんなにそれを頑張ったとしても、そこに誰かからの需要がなければ、お金を稼ぐことはなかなかできません。

 

 

自分のしたいことと社会の中に需要があることをなるべくすり合わせていくことで、好きなこと、得意なことを仕事にしていくことができるのでしょう。

 

学校生活の中で、自分のためになるのは勉強でした。

 

学校を卒業して、勉強していた時間をものすごく自分の好きなことに充てられるとします。(例えばゲームにします)

 

ゲームをどんなに頑張ったとしても、ただ普通にこれまで通り遊ぶだけでは仕事にはなりませんよね。

きっとゲームを実況して人が楽しめるコンテンツにしたり、新作ゲームのバグがないか仕事として責任感もってプレイしたり、開発する側になったり…

 

いろいろあると思いますが、何か誰かの役に立つ形にすり合わせていかなくてはなりません

自分の好きなことは、どうしたら社会にある需要に沿わせることができるか、ある意味妥協点を探す、ということなのかもしれません。

 

そのすり合わせていく力は、人との関わりを通してしか身につかないように思います。

 

自分が大好きで得意なことでも、もちろんそれを苦手とする人がいます。自分を他人と比べることで、客観的に自分が苦手なこと、得意なことが見えてきます。

 

自分のどんな能力や好きなことが社会の中で強みになっていくのかということを学んでいくのが、学校生活での勉強以外の時間だと思います。

 

自分の得意なことは他の人と比べて強みになりうるか、人との関わりでどんな役割を担っていけるか、これらのことを察知したりしながら自分のキャリアについて考えていく必要があるように思います。

 

偏差値至上主義でとにかく偏差値の高い大学に行けばすべて安泰、のような時代ではないです。

もし、仮にそのような学生時代は勉強だけしていればいい世界であったとしても、そういった人がいざ社会の中で他人と協働する際にどんな苦難にあうのか…本当に自分がやりがいを感じられる仕事ができているのか、わかりません。

 

企業の中で他者と協働して働くにはもちろんチームを意識した言動が求められるでしょうし、起業したりフリーランスとして生活するのにも社会にどんなものが必要か考える力が必要です。

 

それをノーダメージで練習することができて、教員というサポート役まで付いているとてもコスパのいい機会が学校行事だと思います。

 

様々な役まわりを本気で取り組んでいく中で、社会での自分の居心地のいい立ち位置がわかってくるのではないでしょうか。

 

 

自分が何に傷つき、どう人を傷つけてしまうか、を学ぶ

 

いわゆる教科の勉強で学ぶ内容自体は、一人でも学ぶことができます。

 

テストが終わってすべて忘れてしまっても日常生活ではさほど困りません。

ただ、自転車は自転車に乗ることでしか習得できないように、人とのかかわり方は人との関わりを通して学ぶことしかできません。

 

何度も練習や小さな失敗を繰り返すことで、将来起こりうる、致命的な大失敗を避けられる力を身に着けていきます。

 

自分はどんな人のどんな言動から大きなダメージを負うか、ということが分かっていれば、あらかじめある程度地雷を避けることができます。

 

 

例えば、激しい罵り合いや怒鳴りあう様子を第三者として発見したとします。

私は全く関係が無くても、とてもエネルギーを吸い取られてしまいます。

 

相手をコントロールするためや、自分の立場のためだけに感情的になっている人がとても苦手です。

 

一方で、それをしっかり他人事として仲裁できる人がいることも事実です。

 

なので、そういった人の対処は、自分よりも適した人がいる、とある程度割り切って考えています。

 

自分が、エネルギーを吸い取られてしまい、無関係にも関わらず必要以上に傷ついて凹んでしまうことが分かっているので、そういう傾向がある人とは、ある程度物理的にも心理的にも距離をとるようにしています。

 

 

ただ、すぐに感情的になる人の多くは、常にそのような状態なわけではありません。

 

自分の思い通りにいかない時、予想外のことが起こったときにその片鱗が現れるのです。

 

学校行事に限りませんが、他人と非日常的な経験を共有することで、思い通りにいかないことや予想外のことが起こる確率が上がりますので、その人がすぐに感情的になるタイプかが分かりやすいです。

 

そこにより多くの人が関われば、思い通りにいかない確率はぐんと跳ね上がります。

 

学校行事でも、いつもトラブルの火種になる人と、仲裁に入る人と、妥協する人と、、、役割がある程度固定化していると思います。

 

そんな経験を繰り返すことで、日常のちょっとした様子からも「あ、この人このタイプかもしれない」とマークする目が養われると思います。

 

ステレオタイプに当てはめて、初対面の人と仲良くなろうとしないということではなく、あくまでも自分が傷つくことを避ける、という範囲ではマークして注意しておくことは有効だと思います。

 

そういったことを繰り返しながら、この人とは仲良くなれそう、という直感を鍛えていくのではないでしょうか。

 

 

自分が傷つかないことではなく、他人を傷つけないすべを学ぶことも大切です。

 

例えば、自分は少し語気が荒くなってしまう癖がある、ということが分かっていれば、気を付けることができます。

 

私の場合は、不愛想で怒っているという印象を与えて誤解を招くことが多々ありました。

目つきも悪いので、中高生の時は、仲良くなれそうだなと私が勝手に好感を抱いていた初対面の子と同じクラスになり、月日が流れて仲良くなった後で、「最初かなみに嫌われてると思ってた」や「こんな話やすいと思わなかった」「性格悪いと思ってた」といわれることが多かったです。

 

現に今まで相当の人数と関わってきましたが、苦手だから距離をとったり、疎遠になったりした人はいても、特段トラブルを起こしたり揉めたり、したことはあまりありません。

 

学校生活では長い時間を共にするので、第一印象が悪くても挽回できますが、日常生活ではそうではないことがほとんどなので、第一印象には気を付けようと気が付くことができました。

 

自分が何も意図しなくても相手を怖がらせてしまうことがある。これが分かっていれば、少しの工夫で、だいぶ地雷を回避することができるようになると思います。

 

現に中高生の時は、仲のいい友人や教員に、「誤解されやすいタイプだよね」といわれてきましたが、

今では、「適応力ある」という旨の事を言ってもらえることのほうが増えました。

一概に学校行事のおかげとは言いませんが、たくさんの人と関わる機会の中で身についたのだと思います。

 

これも、人との関わりを通してしか学べないと思います。

 

 

遊ぶ力

これはあおまけ程度ですが、これからの将来(今もかな)、単純な仕事はどんどん機械に代わられています。

 

面倒なことが減っていくから、生活や仕事はどんどん楽になるはずなのに、もっともっとと欲を出して、物質的な充足を目指した結果、現代人はどんどん忙しくなりました。

 

しかし、その物質的な充足には満足しなくなり、持続可能性も議論され始めています。 ライフワークバランスといわれるように、私生活を充足させる力も求められています。

 

与えられたタスクをこなしていく力ではなく、自分が幸せになれることを見つけて、幸福度を高めていく力も必要です。

 

学校生活での勉強は、多くの人にとっておそらく仕事のような立ち位置、やらなければならないタスクなので処理していく、といった位置づけにあると思います。

 

しかし、他の行事などはだるいと思う人もいれば、本気で取り組んで楽しんだり、没頭したりする人もいます。

 

ライフワークバランスの話に当てはめれば、学校行事を後者のように本気で取り組める人は、ライフのほうを能動的に楽しむことができる人だと思うのです。

 

やってもやらなくてもいいことを、興味を持って取り組む力です。

 

 

働いていれば多くの人が、衣食住には困らないでしょう。その中で、旅行に行く、料理を頑張ってみる、DIYでおしゃれに…などやらなくてもいいことに没頭できる人は私生活も充実していくと思うのです。

 

自分の得意不得意をしっかり把握して、ストレスのかからないポジションで社会に貢献し、他人とも程よい距離間で人間関係に消耗しすぎず、

大切な人としっかり付き合っている、意味のないことに意味を見出し、人が素通りしてしまうことすら楽しんでしまう、そんな人がこれからを楽しく幸せに生きていけるんじゃないでしょうか。

 

そしてそういう人になるための訓練ができるのが学校行事の場だと思います。

 

 

それでは!